2025年11月4日 掲載
「いのち動的平衡館」の入り口で感じたこと
先日、大阪・関西万博の「いのち動的平衡館」を訪れました。「触覚体験」の枠を幸運にも得られたため、視覚障害者である私と同行者(晴眼者)は、一般の方々の列の先頭で待機しました。未来ある夏休み中の少年たちの前に並ぶことに恐縮しつつ、多くの方が体験できなかったであろうこの機会を大切にしなければと、緊張感をもって臨みました。
「触覚体験」の中身と一般体験との違い
「いのち動的平衡館」に入場すると、定位置に立つ、ヘッドホンを装着する、両手にボールを握るという3つのことを指示されました。体験者の準備が整うと、あとは一般の方々と同様にパビリオンの鑑賞に入るという流れのようでした。
プログラムが始まると、ヘッドホンからは詳細な解説が流れ、地面とボールは映像の動きや効果音に連動して振動しました。しかし、このとき、同行者や後ろに並んでいた一般の方々が何をしているのかはわかりませんでした。
解説や振動は視覚障害者への特別な補助機能であろうと予想しましたが、私は障害の枠を超えて有用な情報伝達だと感じました。あの少年たちにもぜひ体験してもらいたいものだと。
体験後、同行者に確認したところ、一般の方々は光の粒子でできた映像とナレーション・効果音を体験しており、私が使用した装置はやはり特別仕様だったことが判明しました。
「いのち動的平衡館」で提供された情報の要素
このパビリオンで提供されていた情報を要素に分けると、以下のようになります。
- 光の粒子による映像
- ナレーションと効果音
- 音声解説
- 字幕
- 振動
| 対象者 | 体験できた要素 |
|---|---|
| 一般の方々 | 映像 (1) + ナレーションと効果音 (2) |
| 私(視覚障害者) | ナレーションと効果音 (2) + 音声解説 (3) + 振動 (5) |
| 聴覚障害者(推測) | 映像 (1) + 字幕 (4) + 振動 (5) |
このうち、1の「映像」と2の「ナレーションと効果音」が一般のみなさんが体験できたものです。見えない私は1の「映像」が体験できなくて、2の「ナレーションと効果音」と3の「音声解説」と5の「振動」が体験できました。聴覚障害者は2の「ナレーションと効果音」が体験できなくて、1の「映像」と4の「字幕」と5の「振動」が体験できるものと思われます。
私の体験した要素を分析すると、単体では不完全でも、二つ以上の要素が集まることで初めて内容を明確に示すものとなり、要素が増えるほど理解度が深まるという事実に気づきました。見えない私は、映像が見えない残念さはあるものの、非常に密度の濃い情報を受け取ることができたという印象です。
記憶に残る「振動」の力
体験から3か月以上が経過した今、私の記憶に強く残っているのは、映像の内容を詳細に伝える「言葉」(音声解説やナレーション)よりも、手に握っていたボールや地面から伝わってきた「振動」の鋭さや大きさの方です。
これは、見えないからといって言葉で詳細に説明すればすべて伝わるわけではないということを示唆しています。言葉で受けた情報はもちろん理解の基礎となりますが、手のひらや足元から得た振動が、私の脳内に色濃い「映像」を構築したことがわかります。
情報の受け止め方は人それぞれ
この体験から言えることは、見える・見えないにかかわらず、情報の受け止め方は人それぞれ異なるということです。
あの少年たちの中にも、光の粒子の映像がピタッとくる人がいれば、効果音にグッとくる人もいて、そしてもしも音声解説や字幕や振動を体験できたならばそれらのどれかの方がより理解しやすかったかもしれません。
たとえば、これらのことをウェブアクセシビリティ、もっと狭めて自治体サイトに置き換えて考えてみたとき、代替テキストで「笑顔の都知事の写真」と教えてもらいたいかというと私の場合は実はそうでもないのです。
代替テキストは「都知事の写真」または「東京都知事」くらいでよい。そこにどうやら都知事の写真があるらしいことが最小の文字列で記されていればそれでいいのです。そして指か何かに特別な振動の装置か何かがついていたらどうでしょう。「東京都知事」という文字列にさしかかったときにそのリングが軽やかにチラチラチラチラと振動するのです。
私の場合は「笑っている知事」と説明されるよりも「東京都知事」+「振動」の方が笑っている知事を受け取りやすいのです。
未来のウェブサイト
つまり、情報の受容体は人それぞれであるから、そこに到達できそうな情報伝達の要素をたくさんちりばめておいたらいいのではないかということが言いたいのです。しかも、その要素は不完全でかまわない。その人の受容体がすべて満たされればいいのであって、その一つ一つのレベルはそう高くなくていいのではないかと思うのです。
これのいいところは、要素をちりばめる側のプレッシャーが最小に抑えられるということです。誰にとっても完璧な完成形を提供しようとすると疲れます。だけど、不完全であってもこういう要素はどうだろう、こういうアプローチもいいのではというように、ちょっとしたアイデアをそこにちりばめておけたら楽しいし省エネです。
それらの組み合わせでそれぞれの受容体が満たされるなんてことがあるのではないか、その方がお互いありがたいなんてときが来るのではないか。「いのち動的平衡館」のうつりゆく光を、見えないくせにめっちゃイメージしながらゆらゆらと考えています。